雨が降っています。
今日、11月7日は特別な日ですね。
カミュのお誕生日、そして2007年の舞台「カリギュラ」初日の日でした。
「カリギュラ」私の感想です。
それは重い扉でした。
開けてはいけない扉だったかもしれない。
胸が締め付けられるように苦しい扉、切なく美しい扉。
ローマに似つかわしくないような、人工的な細い色とりどりのネオン管が、
光輝く中、いろいろな感情が、降りしきる雨のように降りそそぎます。
誇り、狂気、滑稽、侮蔑、残酷、傲慢、恐怖、見せしめ、気まぐれ。
叫び、脆さ、繊細、嘘、なぐさめ、諦め、望み、絶望、甘さ、優しさ・・・。
カリギュラは、泥のように、悲しみに打ちひしがれて現れたかと思うと、
白いテーブルクロスの上を、食器を蹴散らし大股で歩く。
その長い指は、愛撫するように優しかったと思えば、
残酷な指先にも豹変する。
長い衣装の裾を引きずりながら、縦横無尽に駆けめぐり、
非道なことを命令し、幼子のように抱きしめられて涙を流す。
とても理詰めの物語でした。すごく抽象的な哲学的な詩的な台詞が並びます。
それでも痛いほど伝わってくる。まずそれに驚きました。
魂の叫びと書くことさえ、軽々しいような、
心の奥深く、沸きあがってくるような底なし沼のような、カリギュラの心。
とてもとても魅力的でした。
あれだけ残虐非道なことをしているのに、
彼を愛したシピオンの、エリコンの、セゾニアの気持ちがわかるのです。
特に、カリギュラがシピオンを抱きしめ、
二人で、詩を交互に口ずさむシーン、美しかった。
自分でも思いのほか、涙があふれてきて戸惑いました。
シピオンの清らかさと、カリギュラの純粋さが、
それは身を切るような純粋さが、ものすごく伝わってきて、
涙を止めることが出来ませんでした。
セゾニアとのシーンも切ないものでした。
その手で殺してしまってからの、カリギュラが愛おしそうに、
セゾニアを抱き上げてゆっくり下ろすところが、より悲しかった。
ケレアは敵対しながらも、彼を理解出来る数少ないうちのひとりで、
二人の攻防は、緊迫感がありながらも、どこか甘美な雰囲気もありました。
月を探してくれたエリコン、諭すようなその優しさ、
最後まで味方になってくれた人でした。
美術は鏡のようになっていて、
いろいろな角度から、カリギュラを、シピオンを、貴族達を映します。
それは最後のカリギュラの独白のシーン、
カリギュラはカリギュラ自身に問いかけるように、
さまざまなカリギュラに、追い詰められるように、
その激しい苦悩に身悶え、立ち向かっていく姿は、
息が苦しくなるほど、胸に、心に迫ってきました。
父を殺されたのに、清らかに愛してくれたシピオン。
カリギュラを、少しニヒルにでも包み込むように、守ってくれたエリコン。
そしてすべてをかけて愛を注いでくれたセゾニア。
彼のまわりには、確実に愛が存在していたのに、
その愛をひざまずいて、受け取ることさえ、
若いカリギュラには屈辱だったのだろうか。
小栗くん、本当に素晴らしかった。
まさに堂々としたタイトルロールでした。
声もよくでていて、残酷な声は凍りつくように、そして優しい声はとめどなく甘く。
これは本当に今、今の小栗くんだからこそ、表現出来たことだと思います。
今の状況の怒り、焦燥、潔癖さ。若者特有の複雑さ、破滅的孤独。
ものすごい力を持って、心の奥底へ迫ってきました。
肩が肌蹴て、長い足がすべてあらわになるような、
でも彫刻のように美しいカリギュラ。
首飾り、白い衣装を纏った姿は知的で、上品さ誇り高さに息を呑みました。
そしてハラハラと涙は落ちます。
それはカリギュラのその苦しみのため?哀しみのため?いいえ、愛しさのために。
後にも先にも、お芝居を観て、これほど降り注ぐように圧倒的な、
打ちのめされるような感動を抱いた作品はなくて、
席はそんなによくなかったのですが、
やはり素晴らしい作品は席は関係ないのだなあと思いました。
小栗くんの演技も、第15回読売演劇大賞、
杉村春子賞(新人賞)の決選投票の最後の3人に残り、
評価されましたよね。
小栗くんの24歳、あのすべてが「カリギュラ」へ向かっていったとき、
「カリギュラ」に必要なものを、本人の意思にかかわらず、
すべて手に入れるように、神様から仕組まれていたような、
そういう奇跡的なお芝居に巡り会えたこと、
それこそ、この「カリギュラ」に巡り会うために、
私は小栗くんのファンになったんだと思いました。
そして私としては、あのお芝居を超えるのは「ハムレット」かなと思っています。
蜷川さん、お願いします!