風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

彼の解釈 カミュの答え

いいお天気です。
mikimiki さんから教えていただきました(ありがとうございます)。
関西では5月31日(日)12:54〜15:00(毎日放送)から、
花より男子2」再放送、フジテレビONEというチャンネルでは、
6月1日(月)23:00〜「救命病棟3」再放送だそうです。見てみてくださいね。
山りんさんから教えていただきました(ありがとうございます)。
「GINGER 7月号」に4ページ「小栗旬 仕事と人生を語る」として、
インタビューが載っているそうです。内容としては子役の時からの思いと、
「今は胸を張って、「僕はいい家庭に生まれました」って言えるんだよね。
本当にいい父と母に巡り合えたこと〜」など、家族に対する思い、
そして昨年からの仕事に対する思いが、綴られているそうです。 
読んでみてくださいね。
小栗くんがいい家庭に生まれたことは、彼を形成する上で、
とても大きな魅力になっていると思います。
こなこさんから教えていただきました(ありがとうございます)。
TAJOMARU」特報出ました。
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id333829/
あらすじも出ています。
http://www2.warnerbros.jp/comingsoon/?frompromo=movie_comiongsoon_list
迫力ありそうですね。とにかく感動できる作品が観たいです。


そうです。感動できる作品。
この頃、「わからないことは贅沢」という言葉を思い出します。
どこで聞いたのか、読んだのかは、覚えていないのですが、
あまりにストレートにメッセージが伝わるものばかりに触れていると、
たとえわからなくても、ドカンと何かが伝わるものに触れたい、
強く感動したいというか、
ということで、先日、ネットをふらふらしていたら(笑)、
男性の方が「カリギュラ」の感想を書かれていました。
その中の一節に、“小栗旬カリギュラに、
伝説的男優ジェラール・フィリップ(初演時、カリギュラを演じています)の、
姿を重ねて想像した人は少なくないのではないか”という部分があって、
とてもとても嬉しかったです!またまた「カリギュラ」の世界へひとっ飛び(笑)。
カリギュラ」は決して良い席ではなかったにもかかわらず、
ものすごく感動して帰ってきたんですよね。
小栗くんのファンになったのは、この舞台に出会うためだったんだと、
本当に思いました。
読売演劇大賞杉村春子賞(新人賞)、決選投票までいったのに、
やっぱり受賞してほしかったなあと改めて思います。
まだその記事が読めます。
http://info.yomiuri.co.jp/prize/engeki/15kai/15_senkokekka.htm
まず蜷川さんが、小栗くんに「カリギュラ」を用意してくれたことが、
凄いことで、先を見る目に感服し、感謝し、
24歳の彼の、あの一年がカリギュラへの大いなる役作りのようで、
巡り会うことが奇跡のようで、かつ運命のようで、本当に心震える舞台でした。
舞台はいろいろ好みもあると思うのですが、息子に、
カリギュラ」は、こうこうこういう物語でと、説明したら、
「それはお母さんの好み、ど真ん中じゃない」と言われて、
そうだったか〜と、今更ながらに思い(笑)、
本当に本当に、胸締め付けれるほど純粋で、
破滅的な美しさに縁取られた、愛しく魅力的なカリギュラでした。
その詩的な哲学的な台詞も、大きく惹かれる要因で、
では、久しぶりに「カリギュラ」の台詞を書きたいと思います。
 

アルベール・カミュ作 岩切正一郎 訳 
カリギュラ」戯曲より。


カリギュラ「セゾニア、おまえはじつに奇妙な悲劇に最後までつきあってくれた。今や、おまえのために、幕をおろす時だ。」
セゾニア「これが幸福?この恐ろしい自由が?」
カリギュラ「そうだ、セゾニア。この自由がなかったら、おれは満ち足りた男になっていただろう。この自由のおかげで、おれは神のように見通す孤独な男の眼を獲得した。おれは生き、おれは殺し、破壊者の狂乱した権力を行使する。それを前にしては、創造者の権力など猿芝居に見える。幸福であるとは、こういうことだ。幸福とは、これだ。この耐えがたい開放感、あらゆるものへの軽蔑、おれのまわりの血、憎しみ、自分の人生を眼下に支配している男の比類なき孤立、罰を受けない暗殺者の常軌を逸した悦び、人間の命を砕く情け容赦のないこの論理、おまえを砕く論理でもある、セゾニア。そしてついに、欲しくてたまらない永遠の孤独を完成させるんだ。」
セゾニア「カイユス!」
カリギュラ「優しさはごめんだ。けりをつけなくてはならない。もう時間がない、愛しいセゾニア!」


カリギュラカリギュラ!おまえも、おまえも罪がある。そうだろう、人より多いか、少ないか!それだけの違いだ。だが、裁判官のいないこの世で、だれがあえておれを裁く?誰もかれもが罪人の世界で。おまえはよく分かっている、エリコンは来てない。おれには月が手に入らない。苦しい。真実の中にいて、終りまで行かなければならないということ。苦しいのは、終わるのが、完成するのが怖いからだ。武器の音がする!罪なき者たちが勝利の準備をしている。なぜそれがおれではないんだ!怖い。ちくしょう、ほかのやつらを蔑んできたあげく、今になって同じ卑怯な心を抱くとはな。まあいい。恐怖も永続しない。おれは心の静まるあの大きな空虚をもう一度見つけるんだ。」


カリギュラ「なにもかも複雑に見える。だがなにもかも単純だ。もしおれが月を手に入れていたら、もし愛だけで充分だったら、すべては変わっているだろう。この渇きをどこで癒せばいい。どんな心、どんな神が、湖の深さをたたえているのか?この世にもあの世にも、おれに見合うものはなにもない。それでもおれは知っている、おまえもだ、不可能がありさえすればそれで充分だ。不可能!おれはそれを世界の涯てまで探しに行った、おれ自身の果てまで。おれは自分の両手を差し出した、おれは両手を差し出す、するとおまえに出会う、いつもおまえだ、おれの前にいる、そしておれはおまえにたいして憎しみでいっぱいになる。おれは行くべき道を行かなかった。俺は何物にも到達しない。おれの自由はよい自由ではない。エリコン!エリコン!何もない!まだ何もない。夜が重い。エリコンはもう来ない。おれたちは永遠に罪人だ。夜は人間の苦悩のように重い。」


エリコン「用心してください、カイユス!用心して!」


カリギュラ「歴史のなかに入るんだ、カリギュラ、歴史の中に。」


カリギュラ「おれはまだ生きている!」


戯曲と舞台(DVDより)では少し違う部分もあります。
「エリコンは来てない。おれには月が手に入らない。苦しい。真実の中にいて、
終りまで行かなければならないということ。」という台詞の中で、
小栗くんは“真実の中にいて”という部分を、
“ほんとうであること”と言っています。
“真実”を“ほんとう”と読むとしても、私は“ほんとうであること”という、
小栗くんの言い方(彼なりの解釈とも思える)が好きでした。
カミュの答えがそこにあるような気がして、心に響きました。