風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

カミュ お誕生日 カリギュラ 初日

曇り空です。
今日、「獣医ドリトル」がお休みで残念なのですが、
お休みである理由がわかりました。
アルベール・カミュのお誕生日、そして「カリギュラ」初日の日だからです(笑)。
本当に、あの24歳のカリギュラの小栗くんは忘れることは出来ません。
ということで、ときどきリサイクル(再利用・笑)ブログになるこのブログ、
カリギュラ」を初めて観たときの感想を、もう一度、ここに書いてみたいと思います。


カリギュラ 感想


それは重い扉でした。
開けてはいけない扉だったかもしれない。
胸が締め付けられるように苦しい扉、切なく美しい扉。
ローマに似つかわしくないような、人工的な細い色とりどりのネオン管が、
光輝く中、いろいろな感情が、降りしきる雨のように降りそそぎます。
誇り、狂気、滑稽、侮蔑、残酷、傲慢、恐怖、見せしめ、気まぐれ。
叫び、脆さ、繊細、嘘、なぐさめ、諦め、望み、絶望、甘さ、優しさ・・・。
カリギュラは、泥のように、悲しみに打ちひしがれて現れたかと思うと、
白いテーブルクロスの上を、食器を蹴散らし、大股で歩く。
その長い指は、愛撫するように優しかったと思えば、
残酷な指先にも豹変する。
長い衣装の裾を引きずりながら、縦横無尽に、駆けめぐり、
非道なことを命令し、幼子のように抱きしめられて、涙を流す。
とても理詰めの物語でした。すごく抽象的な哲学的な詩的な台詞が並びます。
それでも痛いほど、伝わってくる。まずそれに驚きました。
魂の叫びと書くことさえ、軽々しいような、
心の奥深く、沸きあがってくるような、底なし沼のような、カリギュラの心。
とてもとても魅力的でした。
あれだけ残虐非道なことをしているのに、
彼を愛したシピオンの、エリコンの、セゾニアの気持ちがわかるのです。
特に、カリギュラがシピオンを抱きしめ、
二人で、詩を交互に口ずさむシーン。美しかった。
自分でも思いのほか、涙があふれてきて、戸惑いました。
シピオンの清らかさと、カリギュラの純粋さが、
それは身を切るような純粋さが、ものすごく伝わってきて、
涙を止めることが出来ませんでした。
セゾニアとのシーンも切ないものでした。
その手で殺してしまってからの、カリギュラが愛おしそうに、
セゾニアを抱き上げてゆっくり下ろすところが、より悲しかった。
ケレアは、敵対しながらも、彼を理解出来る数少ないうちのひとりで、
二人の攻防は、緊迫感がありながらも、どこか甘美な雰囲気もありました。
月を探してくれたエリコン、諭すようなその優しさ、
最後まで味方になってくれた人でした。
美術は、鏡のようになっていて、
いろいろな角度から、カリギュラを、シピオンを、貴族達を映します。
それは最後のカリギュラの独白のシーン、
カリギュラカリギュラ自身に問いかけるように、
さまざまなカリギュラに、追い詰められるように、
その激しい苦悩に身悶え、立ち向かっていく姿は、
息が苦しくなるほど、胸に、心に迫ってきました。
父を殺されたのに、清らかに愛してくれたシピオン。
カリギュラを、少しニヒルに、でも包み込むように、守ってくれたエリコン。
そしてすべてをかけて愛を注いでくれたセゾニア。
彼のまわりには、確実に愛が存在していたのに、
その愛をひざまずいて、受け取ることさえ、
若いカリギュラには、屈辱だったのだろうか。
小栗くん、本当に素晴らしかった。
まさに堂々としたタイトルロールでした。
声もよくでていて、残酷な声は凍りつくように、そして優しい声は、とめどなく甘く。
これは、本当に今、今の小栗くんだからこそ、表現出来たことだと思います。
今の状況の怒り、焦燥、潔癖さ。若者特有の複雑さ、破滅的孤独。
ものすごい力を持って、心の奥底へ迫ってきました。
肩が肌蹴て、長い足がすべてあらわになるような、
でも彫刻のように、美しいカリギュラ
首飾り、白い衣装を纏った姿は、知的で、上品さ誇り高さに息を呑みました。
そしてハラハラと涙は落ちます。
それはカリギュラのその苦しみのため?哀しみのため?いいえ、愛しさのために。


今読んでも、あのときの感動が蘇ってきます。
小栗くんの舞台で、一番衝撃を受けたのは、
一番涙を流したのは、「カリギュラ」でした。
ファンになったのは、この舞台に巡り合うためだったのだと思いました。
小栗くん自身も、カリギュラの演技は、第15回読売演劇大賞
杉村春子賞(新人賞)の決選投票の最後の3人に残り、
評価されましたよね。
そして大いなる役作りのように、カリギュラへ向かっていったという、
2007年、運命を感じます。
今夜、美しい月は見えるでしょうか。
夜の闇に飲み込まれないように、
あの24歳の美しいカリギュラを思い出すことを、どうか許してください。