晴れていて、暑いです。
今日は舞台のパンフレットを見ていました(毎日、工夫しています・笑)。
彩の国シェイクスピア・シリーズは、皆大きさが一緒なので、
全て揃えたら壮観でしょうね。
「お気に召すまま」がグレー。「間違いの喜劇」が黒。
「タイタス・アンドロニカス」が白。すべて表紙はタイトルだけで、
シンプルなデザインが素敵です。
パンフレットの写真はどれも凄く好きです。稽古中の真剣な瞳とか、
凛とした雰囲気に惹かれます。そのカンパニーの息吹が伝わってくるようです。
「タイタス・アンドロニカス」の小栗くんのアップの写真は、
小栗くんとエアロンがせめぎあっているような、魅力的な写真でした。
そういえば、「間違いの喜劇」は、“初日1週間前、演出プランが変更になった”と、
プリントが1枚、はさまれていました。そこに、
「全体があまりにもキレイだから壊したい」
「あまりにキレイだと裂け目が欲しくなるんだ」という言葉がありました。
この間、マリさんに紹介していただいた(ありがとうございます)、
NINAGAWA 千の目 蜷川さんと宮川彬良さんの対談の中で、
宮川さんが身毒丸の曲をまかされて、最初の曲をほめられたので、
次々にそういう綺麗路線のメロディを作っていったら、
「そんな綺麗な音を作られたら、こっちは舞台に腐ったナスでも落とすしかないな」
という言葉。ちょっと共通していませんか。
これは対比?深み?完璧に対する回避?
やはりただキレイなだけだと、
かえってキレイなことが際立たないということでしょうか。
いろいろな解釈があると思うんですが、
私は若いとき、つかこうへいさん脚本の「蒲田行進曲」という映画を見て、
もう、みんなみじめでどろどろで、浅はかで這いつくばって、
でも凄く純粋なキレイな部分が感じられて、そこに感動して、
こういうキレイさもあるんだなあって思ったことがありました。
「シェイクスピアは猥雑で下卑ていてアングラの匂いがするものです。
そのいかがわしさをつくりたいんです」ということが、
「間違いの喜劇」のそのプリントにも書いてありましたが、
でもそこに芸術性もなくてはならない。安っぽくて、薄っぺらだと感動出来ない。
バランス、深み、遊び心、いろいろなものが絡み合って、
純粋でキレイなものが私たちに呼びかけてくるんですよね。
ただ白いお皿にキレイな果実が食べてってのせてあるよりは、
森の奥深く、迷い込んで探して、木漏れ日の光の中、
美しい果実をみつけるような、その感動の方がはるかに上なんですよね。
その美しい果実が小栗くんなのか。
それとも導いてくれたその木漏れ日の光が小栗くんでしょうか。