風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

役者はたった一人で文脈である しかも描写である

冷たい朝です。
カリギュラ」の感想を、コメント欄にて、みらいさんが報告してくださっています。
ありがとうございます。読んでみてくださいね。
sero さん、ぷーさんから教えていただきました(ありがとうございます)。
上地雄輔くんのブログに「情熱大陸」のことが書かれています。
http://ameblo.jp/kamijiyusuke/
11月19日、“街を照らす月が落ちそうざます。”のところです。
昔からのお友達の言葉は嬉しいですね。
よもぎ団子さんから教えていただきました(ありがとうございます)。
木俣さんのブログ、やはり「情熱大陸」そして「アクチュール」のことが書かれています。
http://blog.livedoor.jp/kamitonami/
終わり方、大事ですよね。


さてあのう、毎日「カリギュラ」の話で申し訳ないのですが(笑)、
どんどん想いは膨らむばかりで、
私たちは凄い瞬間に立ち会ったのではないかと、
見たこともない美しい花が咲く、その瞬間。
その花はどんな匂い?どんな色?どんな形?
まだ頭が混沌としていて、心が揺らいでいて、形が定まらない。
カリギュラ」観劇後、怒涛のように、いろいろな感想を読み漁っているのですが、
いろいろな感じ方があって、余計に混乱してしまう。
でも昨日は、「観念的な難しい台詞も、生理的にうなずけてしまう」と、
書かれた方がいて、そうだ!って思って、それは小栗くんがすべて理解して、
租借して、体現して、喋っているからですよね。これは凄いことだと思う。
ものすごい頭の良さです。感性です。
だからあんなに難解な台詞が、小栗くんを通すことによって、
こんなにも伝わってくる。
やはり昨日、さい芸の「アーツシアター通信」が、届いたのですが、
「オセロー」を観劇した作家の方の言葉に、こういう一節がありました。
「役者の肉体は、作家の文体である。テレビより映画、映画より舞台と、
その“文体”はシビアに問われる。
そのうえ役者はたった一人で文脈である。しかも描写である」
カミュの思いを、小栗くんの演じるカリギュラという身体から、
文体、文脈、描写として、私たちは感じるのです。
それはときに衝撃的に、疾走感あふれて、ときに叙情的に、色っぽく。
同じく、その「アーツシアター通信」に、小栗くんと蜷川さんの対談、
「NINAGAWA 千の目」のことが載っていたのですが、
これは旧BBSに(もう消えてしまってとても残念なんですが)、皆さん、
そのときの様子を書き込んでくださいましたよね。ありがとうございました。
その中のほんの少しが書き出されていました。
「小栗、おまえはそんなところで生きるな」
「小栗、次のステップに行くんだぜ」
蜷川さんの言葉は、いつも本当に本当に嬉しいです。
そうだ、まだ花は咲いていないのです。
ただ次のステップへ行っただけなのです。もっともっと高みへ。