風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

箱庭のようにきめ細かに創られた異空間

ゴールデンウィークはこれですべて晴れましたね。
今日、新聞を読んでいたら、蜷川さんの舞台でよく美術を担当される、
中越司さんが結婚されるという記事がありました。

【 Yahoo ニュース 】

昨日のテレビ番組でも発表になったんですね。その番組は見ていないのですが、
比企さん、2004年の「お気に召すまま」をご覧になられて、
それで中越さんと再会されたんですね。
それは「お気に召すまま」がキューピット役でしたね(笑)。
「お気に召すまま」、本当に素敵な舞台美術でした。
2004年の「お気に召すまま」、何十年ぶりに観た舞台で、
本当に感激して、それが日に日にその感動が大きくなっていき、
この気持ちをどうやって収めようと思って、まだブログをやっていないのに、
感想を長々書いてみたり、もちろん小栗くんの公式HPの、
BBS(当時は誰でも書き込めたので)へ、感想を投稿したり、
ついには、その舞台のアーデンの森の絵を、キャンバスに描いたりしていました。
2007年の再演のとき、一緒に行った長男に、「お母さんの絵と違うね」と、
言われましたが(自分の腕ではあの舞台は絵で表現できなかった・・・笑)、
本当に素敵なまさに皆が身を寄せる、説得力のあるアーデンの森だったのです。
木漏れ日が揺れて、吸い込まれるような癒しの森、
その中にあの美しいオーランドーですから、もう引きこまれないわけがないです。
私が観た蜷川さんの舞台は、すべて中越さんの美術でした。
「お気に召すまま」「間違いの喜劇」「タイタス・アンドロニカス」
カリギュラ」「ムサシ」
「間違いの喜劇」は鏡張りの美しいセットで、あの白と赤の衣装が、
そこかしこに点在して、それでひとつの美しい絵になっているようでした。
「タイタス・アンドロニカス」は、とても斬新で、本当に圧倒的な白。
舞台がDVDになった場合、どうしても生の舞台の迫力が伝わりにくいのですが、
「タイタス・アンドロニカス」が一番、生と映像の差があるような気がします。
もっともっと圧倒的な白で、貫く天井までの真っ白な舞台。
無垢な白ではなく、恐ろしさも残酷さも、憎しみ、悲しみ、虚しさ、
それらを際立たせる白という感じでした。
最初は稽古中のような様子で、まだその白いセットには、罫線が引かれていて、
蜷川さんのひと声で、お芝居に入り、その罫線がパッと消えて、
真っ白の舞台装置が目に飛び込んできたとき、本当に衝撃的でした。
「ムサシ」もあの装置がゆっくりと転換していくところとか、素敵でしたよね。
カリギュラ」はやはりあのネオン管が印象的でした。
NINAGAWA STUDIO のHPに、「カリギュラ」について、
中越さんのインタビューがあります。


【 NINAGAWA STUDIO HP 中越 司インタビュー 】
その一部を書き出してみますね。


蜷川舞台の中で、非常に重要な存在である装置。
時にリアルに、時に抽象的に。
それにはいつも深い意味があり、
それに包まれ、突き動かされて、
俳優達は、より役の息づかいになっていく。
観客達は、箱庭のようにきめ細かに創られた異空間に、
ひととき酔いしれる。
これは、公演ごとに建ち、あっという間に消えてしまう幻のような
装置の記憶を残す試み。


戯曲には〈装置に重要性はない。「ローマ風」のジャンル以外、すべてが許されている。第一、第三、第四幕は、皇帝の宮殿の一室で行われる。そこには鏡(人の等身大の大きさの鏡)、銅鑼、椅子兼用のベッドのあることが必要である。第二幕はケレアの食堂〉とだけ記されている(岩切正一郎訳による上演台本より)。
「『カリギュラ』の装置を蜷川さんと打ち合わせた時、“哲学的な内容の戯曲を、言語でない見せ方をしたい”と言われたんです」
――すると、登場人物の心象風景の変化をネオン管の色で見せたのは、当初から考えていたことなのですか?
「なんとなくは思っていたけど、具体化したのは、稽古をしながらです。照明家の大島さんとも相談しながら色を決めていきました」
――ネオン、きれいでしたね。フランシス・ジョンソンの「アルベール・カミュ あるいは反抗心」という論文(「革命か反抗かーカミュ=サルトル論争―」佐藤朔訳 新潮文庫)にあるカミュの「知的透明性」とかいう感じも表現されていた気がします。
「それは、偶然だと思うけど(笑)。演出家は、主演が若い小栗旬君だからということもあって、若者の多い街・渋谷をイメージしたようです。当然インパクトも狙って。サイバーパンクとでも言うような新世界な感じを出そうと思いました。それでいて少し手作りふうな雰囲気もあるような」
――ラストの鏡を割るところも稽古場で演出部スタッフが試行錯誤されていました。
「毎回、全面割れると経費的に負担が大きいので、中央の鏡だけ9枚の正方形の鏡のはめ込みにして、公演のたびに割れたものだけ取り替えるようにしました。厚すぎると割れないし、薄すぎるとたわんでしまうので、ほどよい厚みを探しました。割れた時に、小栗君のほうに破片が飛ばないように、鏡の後ろは板で補強しないで、椅子が突き抜けるようにしてあります」


カリギュラ」も本当にネオン管と鏡張りで、美しい舞台装置でしたね。
“観客達は、箱庭のようにきめ細かに創られた異空間に、
 ひととき酔いしれる”〜本当にそのとおりです。
飾るとか、見るだけのものでなく、その中で役者さんが動くということですから、
舞台装置自体も動きますし、日々作り上げていく感じで、
こうやって、小栗くんの方に、鏡の破片が飛ばないようにとか、
安全面も考えなくてはいけませんし、
しかしそのお芝居の中の深い意味を担っていて、凄く重要ですよね。
役者さんたちはまさにその世界に生きることになりますし。
そういえば「カリギュラ」は、観劇後、少し放心状態のようになって、
それこそ渋谷の街を歩いていて、都会の賑やかなクリスマスイルミネーションが、
自分の今の心情と、随分不釣合いだなあとか思いながら、
でもネオン管の美術とどこか似ているところもあるなあと思ったことを、
思い出しました。
偶然とはいえ、カミュの「知的透明性」も表現される形になった、
色とりどりのネオン管。
“若い小栗旬君だからということもあって、
 若者の多い街・渋谷をイメージした”ということなら、
もし「カリギュラ」の再演があるとしたら、また違った舞台装置になるでしょうか。
また舞台に立つ、その美しい舞台美術に負けない、美しい小栗くんが観たいです。
とにかく中越さんの美術にはいつもいつも感動をいただいています。
ご結婚、おめでとうございます。