風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

カリギュラ 劇評

曇り空です。
まずバンクーバーオリンピック、長島選手、銀メダル、加藤選手、銅メダル、
おめでとうございます!
そして今日は、男子フィギュアスケートショートプログラムをLive で見てました。
ドキドキしました〜。日本選手、好発進でしたね!
特に高橋選手は僅差の3位で、素晴らしかったです。
フリーでも、全力を出し切れますよう、最高の演技が出来ますように、
願っています。
その男子フィギュアを見ている合間に、「いいとも」も見ていまして、
ちょうどテレフォンショッキングに、古田新太さんが出演されていました。
小栗くんから、とても大きなお花が来ていましたよ。
あの大きさは、舞台がやりたい、という意思表示ですよね(そうなの?笑)。


さてその舞台、小栗くんに関しては、舞台の「ぶ」の字も、
いっこうに聞こえてこない今日この頃ですが(笑)、
よく過去のブログで、例えば、舞台の新聞の劇評など、
リンクしたところをクリックすると、その記事がもう消えている場合が、
あるのですが、ずっと読めるようにするには、
このブログ自体に書いておくのが一番いいかなと思いまして、
今日、書いてみます(数年経っていますしね・笑)。
では、小栗くんの出演した作品の中で、一番劇評が、
書かれたのではないかと思われる、「カリギュラ」について。
いまだに、「カリギュラ」の押し寄せる波のような衝撃的な感動を、
超える作品には出合っていません。


<孤独と熱情描き出した小栗>   毎日新聞


ノーベル文学賞受賞のアルベール・カミュの演劇における代表作ながら、日本では上演されるよりもレーゼドラマ(読む戯曲)として親しまれてきた感がある作品を、蜷川幸雄が演出、舞台化した。岩切正一郎訳。
ローマ帝国の青年皇帝カリギュラ小栗旬)は、愛し合っていた妹の急死の後、宮殿から失踪。戻ってきた彼は、それまでの聡明で慈愛の人から一変、財産を所有する者の相続権を放棄させ、処刑して国庫に没収するなど、絶対権力を背景に気まぐれで無慈悲な政策を次々と実施していく。
カリギュラを支えるのは、年上の愛人セゾニア(若村麻由美)や奴隷の身から開放された忠臣エリコン(横田栄司)らごく少数だ。ケレア(長谷川博己)を中心とする貴族たちは、皇帝殺害の陰謀をはかり始める。
カリギュラと愛人、部下、貴族との論争に近い会話がダイナミックで興味深い。「人は死ぬ。そして人は幸福ではない」という絶対の不条理を発見したカリギュラは、この不条理と闘うため、「神々と同じだけ残酷になればいい」と言い切る。
美の女神ビーナスに扮したり、狂気そのもののようなカリギュラの行動の下から、現実にいらだち続ける青年の無垢な魂が透けて見えてくる。父を殺されながら、詩人シピオン(勝地涼)が彼を理解するのはそのためだ。
蜷川は舞台装置(中越司)にネオンを使うなど、現代のパンクの若者たちに通じるカリギュラの反抗の世界を、ビジュアルに表現してみせた。きしむような孤独と熱情とが同居する青年を、小栗がうまく描き出した。貴族階級の欺瞞を糾弾する横田、死まで受容する愛を選ぶ若村らが好演。30日まで。


小栗旬 がむしゃらに難役>   読売新聞


残虐な暴君として描かれることの多いローマ皇帝カリギュラ。だが、「異邦人」などで知られる作家カミュは、愛する妹の不条理な死を許した神に反発し、自ら神になろうとした若者の悲劇としてとらえた。絶望や孤独を抱えながら狂気の独裁者として振る舞うという難役に、映画やテレビでも活躍する若手、小栗旬が挑んだ。
妹の死後、人が変わったカリギュラは、財産を持つ者は殺して遺産を没収するという宣言を始めとして、容赦ない暴政を行う。彼によって親や子を殺され、妻を奪われた貴族たちは、皇帝暗殺を企てる。
劇中劇のような場面や、「演じる」などのせりふが度々登場する通り、カリギュラの狂気は装われたもの。不条理について論理的に考え抜いた末、神をも恐れぬ非道の振る舞いをすることで、妹の死を許容した神を否定しようとする。
しかし、周りの貴族は自己保身しか頭になく、彼を愛するセゾニア(若村麻由美)や忠臣エリコン(横田栄司)らを除けば、ほとんど理解されない。その苦悩やいらだちを、小栗は若さみなぎる、がむしゃらな演技で表現した。その姿は、打算や妥協を好む大人の論理や社会常識に逆らう若者特有の怒りとしても、見る者の共感を誘う。
激情に走るあまり、内に秘めた論理性や冷静さなどまで表現しきれたとは言えない。だが、狂気を演じるという役柄の共通性や体当たりの熱演から、ハムレットを演じた時の藤原竜也を思い出した。
小栗は蜷川幸雄演出の舞台に度々出演してきたが、より難しい役に果敢に挑んだことで、また一つ階段を登った。鏡とネオンを使った美術(中越司)も強烈な印象を残す。
――30日まで、渋谷・シアターコクーン


<生きる不条理、小栗が体現>   朝日新聞


悪名高いローマ皇帝に、人が生きることと世界の不条理を投影したA・カミュの戯曲(岩切正一郎訳)を蜷川幸雄が演出した。主演は小栗旬。その人気を反映し、ぎっしり埋まった客席に熱気が満ちている。
皇帝カリギュラ(小栗)は、妹の死を契機に常軌を逸した行動をとり始める。理由なく人を殺し、財産を没収し、食糧供給を止める。侮辱され、家族の命を奪われた貴族たちはなすすべがなく、宮殿は恐怖と混乱に支配される。宮殿の装置は一面鏡張りでカラフルなネオン管が彩る。ポップでキッチュな空間だが、光の色の濁りのなさと明滅が主人公の心象を伝えている(中越司美術)。
このカリギュラは狂った暴君ではない。「人は死ぬ。幸福ではない」「この世は少しも重要ではない」ことを認識し、その「真実」の中で生きると決めた美しい若者だ。それゆえに、いらだち、怒り、考えに沈み、暴走し、自ら破滅を招く。愛敬のある笑顔を見せたかと思うと、凍るような目で相手を射すくめる。この、知的で混沌(こんとん)としていて、危険な主人公を、小栗は鮮烈に体現する。膨大なせりふを語りながら、周囲の人々との関係を明解に見せ、その内面に渦巻く尋常ならざる世界に、見る者を巻き込んでゆく。
取り巻く人物も魅力的だ。
カリギュラに理知で対峙するケレア(長谷川博己)も、詩人の心で共感を寄せるシピオン(勝地涼)も、自分の中にも彼がいることを自覚している。ケレアはそれを「黙らせ」、シピオンはともに苦しむ道を選ぶ。ここにはいかに生きるかという悩みと向き合う若者の普遍的な群像がある。冷静で酷薄な態度の中にわずかな揺れを見せる長谷川、初々しく清潔な勝地、小栗を含めた3人の関係は、時に官能的にも見える。
若村麻由美が硬質な表現で見せる年上の愛人セゾニアからは、すべてを受け入れる愛と覚悟がにじむ。横田栄司の忠臣エリコンは、皮肉で粗野な言動の中に一途な思いが光っている。
30日まで、東京・渋谷のシアターコクーン。12月に大阪でも公演。


カミュの文語をはらわたに宿す、生々しい小栗旬の苦悩>  Bunkamura HPより


熱気、期待、興奮、好奇、羨望――。そんな観客の無数の眼に晒されるなか、小栗旬カリギュラは、まるで霞が揺曳するように、あまりにも静かに登場する。絶望と吐気、怒りと憔悴。ボロ着れをまとい頭を垂れて、自身の全方位を取り囲む鏡像を避けるように…、“あるべき姿にない現実”に対しフラストレーションを覚え苦悩するカリギュラは現れる。その主人公の様子とは裏腹に、演出家・蜷川幸雄は舞台全体をあっけらかんと発光する極彩色のネオン管で照らしだす。どんなにスターが疲れ果てていようと、世間はおかまいなしに俗情的な好奇の視線で煽る。今現在の小栗自身を取り巻く現状と、皇帝カリギュラの状況が、この時点で無理なく二重写しに見えてくる。
この登場シーンの演出に端的に示されるように、カリギュラという役は、まさに今の小栗にしか演じられない役柄。薄汚れた世間を射抜こうと呻く潔癖なロジック、「月が欲しい」というセリフを背負える美しい詩性、凶暴なまでに若々しく躍動的な身体性、愛嬌と色気と恥じらいがないまぜになる軽妙なユーモア、不可知という言葉にさえ食ってかかれそうな迷いのない知性。これらすべての演技体を小栗は自在に使い分け、哀しみや狂気や絶望に自己陶酔しない成熟した熱演を見せつける。何より、あまりに形而上的に思えるカミュの言葉を、ひとたび小栗が口にすると、それが生々しい現代の若者の苦悩として聴こえてくるのが素晴らしい。
蒸留水のように清らかな芸術的魂を体現する勝地涼のシピオン、世のすべてを明晰な論理で秩序立てる長谷川博己のケレア、厭世的な批評眼で世を笑う横田栄司のエリコン、理屈を越えた愛ですべてを覆う若村麻由美のセゾニア。彼らそれぞれがカリギュラの一部を投影した鏡像でもあり、また、どこまでも理解しあえない絶対的他者でもある。その哀しき事実を、彼ら優れた役者陣は単なる直感や勢いに頼らず、論理的裏付けのある言動でクリアに具現化していく。
他者の意識のなかで戦ってきたカリギュラが、鏡に映る自己と対話するラストの独白。カリギュラが掴めなかった“月”を、小栗はこの最終場で掴んでしまった気がする。無論それが可能だと踏んで主役に据えた蜷川の慧眼も凄まじいが、小栗もその演出家の期待に十二分に応え、成し遂げるのが“不可能”とも思える難役を見事に演じきってみせた。満座の観衆はこの夜、ほむらのような役者・小栗旬の才能に圧倒された。
2007年11月7日(水)〜11月30日(金)
Bunkamura シアターコクーン


最後のBunkamuraのHPの言葉は、そこの公演なので、新聞評よりは、
公平ではないと思いますが(笑)、しかし、
“あまりに形而上的に思えるカミュの言葉を、ひとたび小栗が口にすると、
 それが生々しい現代の若者の苦悩として聴こえてくるのが素晴らしい。”
これは確か蜷川さんも小栗くんに対して、
「天性の才能だと思うんだけど、おまえはたとえ古典のセリフを喋っても、
 ある種の日常的なリアリティがくっ付いてくるんだよ」と仰っていたことで、
本当にそうなんですよね。小栗くんの台詞を聞くと、頭で理解するというより、
心で理解するというか、そこが凄いと思います。
だからこそ、是非、古典を演じてほしいなあと思います。
そして私は、毎日新聞の、
“狂気そのもののようなカリギュラの行動の下から、
 現実にいらだち続ける青年の無垢な魂が透けて見えてくる。” 
“きしむような孤独と熱情とが同居する青年を、小栗がうまく描き出した。”
この文章に、とても共感します。
その無垢な魂、私は感想に、“身を切るような純粋さ”と書きましたが、
その純粋さに、涙が止まりませんでした。
読売新聞の、
“狂気を演じるという役柄の共通性や体当たりの熱演から、
 ハムレットを演じた時の藤原竜也を思い出した。”
“小栗は蜷川幸雄演出の舞台に度々出演してきたが、
 より難しい役に果敢に挑んだことで、また一つ階段を登った。”
この文章は、とても嬉しかったですね。
朝日新聞の、
“このカリギュラは狂った暴君ではない。「人は死ぬ。幸福ではない」
 「この世は少しも重要ではない」ことを認識し、
 その「真実」の中で生きると決めた美しい若者だ。”
本当に、心震えるように美しい小栗くんのカリギュラでした。
そして24歳のこの時、カリギュラを演じるべきだったという、
説得力にあふれていました。
いろいろな美しさがあると思います。それぞれが評価されるもので、
でも若さをともなった美しさはもう戻ってこない。
今、27歳の美しいこのとき、演じるべきだという役に出合ってほしいと、
切に願います。