風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

あかいくらやみ〜天狗党幻譚〜 感想

よく晴れました。
今夜は「僕らの音楽」ですね。楽しみです。
【 BBS 】にてmking さん、三月さん、tomtomgo さんが、
「あかいくらやみ」の感想を書いてくださいました。
ありがとうございます。読んでみてくださいね。
2時間半、いつのまにかその世界に引き込まれます。
心に響く台詞もあり、
この史実を下敷きにしてこう表現するのかという感動もあります。
そして生の声はやはりいい声でした。
ということで、私も15日と16日に「あかいくらやみ」を観てきました。
今回、2日連続で、チケットが取れたので、
15日のマチネで観劇し、16日の午前中にスカイツリーに主人と登り(笑)、
また16日のマチネで観劇しました。
席は1列違いの全く同じ席(笑)で(真ん中より少し後方です)、
違う角度からも観てみたかったのですが、
でも2回ともその世界を彷徨うことが出来ました。
パンフレット(1800円)と、
戯曲が掲載されている「悲劇喜劇 2013年6月号」(1300円)を買ってきました。
両日とも満席で立ち見も出ていました。
カーテンコールは15日16日とも2回。
それこそ真っ暗の暗闇から、突然夜が明けるように、
舞台と客席、すべての電気がつくので、
余計にはっとするような感じがします。
小栗くんは中央に立ち(白石さん、小日向さん、小栗くん、原田さんの順)、
皆がしっかり並んだのを確認後、ゆっくりとお辞儀。
手は挙げず、顔と身体の向きを少し変えて、
右上方へ左上方へ会釈をし、感謝の意を表し、またお辞儀をし、
かつかつと舞台の袖に引き上げます。
2回目は、皆が並んだ後、皆が後ろを向いて、
そこに立っている二人の天狗さんを見つめ(笑)、
彼らにも拍手を促すような感じで、その振り返った後が少しニコッとして、
可愛いです(笑)。そしてまたお辞儀をし、
やはりかつかつと引き上げていきます。
拍手は鳴りやまないのですが、すぐ場内アナウンスが入ってしまいます。
2日とも、拍手が濃密だなあと思いました。
なんか変なんですけど、上擦っていないというか、
その舞台を静かに称える良い拍手でした。
いつものようにあまり情報は入れず観てみたのですが、
それはそれで、凄く物語に引き込まれるというより、
巻き込まれる感じがして、
そしてそこに到達するの?という感情に飲み込まれるので、
その感じを味わうのに、情報は入れないでよかったと私は思いました。
でも2回目は、パンフレットを読み、登場人物の関係等、
よく頭に入れて観劇したら、それはそれでわかりやすく、
このためにこの人はこういう行動をとっていたのかと思い、
こういう見方もあると思うので、
皆さんご自分に合った見方をされればいいと思います。
久しぶりの小栗くんの生の声はやはりとても良い声で素敵で、
心にストンと落ちて来て、しかも力がありました。
私は生の声の方が好きかな。
舞台映えする容姿も相変わらずでした(笑)。
では舞台「あかいくらやみ」の感想を書きたいと思います。
しっかりネタばれになりますので(笑)、
読みたい方だけお願いします。











あかいくらやみ〜天狗党幻譚〜     長塚圭史演出
                          大一郎 小栗旬
                          金次郎 小日向文世
                          おゆん 白石加代子
                          奈生子 原田夏希


真っ暗の暗闇に薄気味悪く浮かび上がる天狗の赤。
玉音放送等々が喧騒のごとく耳を覆い、ピタッと止まると、
国民服を身にまとい踝までの長いコートを着た大一郎と、
彼の後ろに心細そうに付いていく着物姿の奈生子。道案内は老婆。
舞台はとてもシンプルでした。中央に回り舞台。
ときに襖が数枚、現れたり、消えたりしながら、
第二次世界大戦後の時代の、それが温泉宿になったり、
過去へ、そして迷宮へ、その回り舞台が回るたび、
それこそくるくると、いえいえ、そろりそろりと、
天狗党の怨念のごとく、時間も場所も行き来しながら、
物語は進んでいきます。
シンプルな舞台に加え、音楽も情緒的なメロディなものは一切なく、
とにかく役者さんの生の身体と生きた声がすべてを動かしていました。
だから当然実力者揃いということもあって、
一字一句とても明瞭に聞こえてきて、
それは小栗くんもですが、文字が浮かんでくるように思えました。
当然舞台は目に見えているのですが、シンプルがゆえに、
見えないものも見えていて(想像で補って)、
その世界を一緒に構築していくので、物語の進行とともに、
どんどん引き込まれるというか、迷い込むという実感の方が強かったです。
それで私は勝手に観劇後、悶々とした思いにかられるのではないかと、
思っていたので、あるシーンからまるで逆の、
心に火が灯るように温かい気持ちが押し寄せてきて、
涙が滲んでしまったことに驚きました。
それは小栗くんが大一郎役になった理由にもなっていると思うのですが、
大一郎は、憎み合う敵同士の血が混じって生まれた、
特別な子なんですよね。それがわかった瞬間に、闇が晴れるようでした。
実は白石さん演じるおゆんの土人形役の女優さんが、
本当に、首の細さからラインから身体全体が男を誘う風な容姿で、
この女優さんがこの役を演じる意味というのが、
ひしひしと伝わってきたのですが(白石さんが若い頃の声を当てていて、
それはもう言わずもがなさすがだったのです)、
それと同じように小栗くんが大一郎を演じた理由。
目が悪く丸メガネをかけて、戦争中ただ穴を掘っていた、
逃げることだけには長けているような、
何かに意味を求めているのに、それさえわからないような、
でも目を引くスラリと長身でその長い手足は、その特別さに、
大一郎という特別さが重なったように思えました。
世界に争いは耐えなくて、ひいおじいちゃんのそのまたひいおじいちゃんは、
〇〇民族に惨殺された〜その復讐の連鎖を断ち切る、
そのために生まれてきたその象徴のような大一郎。
しかし大義という信じて疑わないものは実は何だったのかという、
そんなことを疑問にも思うことさえ律儀に行わず、
破滅的な行動に走った者たちへの、長塚さんの愛も感じた物語でした。
時代に翻弄され滑稽で哀れで、失った命は数知れず、
しかしそれぞれの思いは実はどんな思いであってもたとえ不毛であっても、
その上にまた命は繋がっていくのだなあと思いました。
天狗の歌が少しの間、耳から離れなかったです。
「あかいくらやみ」の「赤」は、天狗の赤であり、血の赤であり、
血縁の赤なのかなあと思いました。
そうそう大一郎は、回を重ねていくにつれ、ラッパが上手くなりそうですよね(笑)。
コミカルなところも小栗くんの良さが出ていたと思います。
皆さんしっかりと演じられているので、
気持ちよくその世界に連れて行ってもらえて、
しかもこういうお話なのですが、笑うところもときどきあって、
2時間半、濃密に見せてもらいました。
なんだか観ながら、もう2004年からこうして東京に出てきては、
毎年のように舞台を観させてもらっているので、
「実は親戚の男の子、役者をやっているんですよ」なんて、
言いたくなるような(笑)、小栗くんの役者としての成長を、
生で実感出来ることは嬉しいことだなあと思いました。
心動かされる台詞も多々あって、「思い描く」という言葉が、
特に心に残っています。
では戯曲が載っている「悲劇喜劇 2013年6月号」から、
印象的だった大一郎の台詞を書き出したいと思います。


何かもっと予感していたんだよ。そう、予感。一部になって脅かされる予感。外から眺めているんじゃなく内から見つめる臨場というか、結合を予感してたんだ。逃げ惑うことじゃないんだ。


それだ。そいつだそいつだ。ここぞって時に、穴掘ってるときにゃどうにも抱けなかったやつだ。今現在の夢中が過ぎると遙か向こうが朧になる。しかし霞みきったらおしまいだ。何のための現在のこの夢中なのかがぼやけちまうもんな。現在のために現在を生きるなんてのはナンセンスで、そんなんじゃどう転んだってケチなことしか思い描けなくなる。お国のためにと穴掘ったり闘ったりしている俺たちの脳味噌ん中だか胸ん中だかにある、広大なカンバスみたいなもんの上には何かとてつもないもんを描いとかなきゃなんなかった。そうだろう。そいつが欠落してるから、そういうもんがないままやってきたから、終わってみりゃただただ今現在のためにジタバタするしかなくなっちゃうだろ。食うとか食わないとかのことじゃなくてってさ。情けないじゃないかってことだよ。漂うだけなんてことはさ。昨日まで粋がっていたのが、一日で日和見みたいにきょろきょろきょろきょろ。それじゃ透けてきちゃうぜ。そうだろう。