寒いですね。雨は降ったり止んだりしています。
璃佳さんが昨日のコメント欄で、ラジオで放送された「next クローズ」の、
小栗くんのコメントについて、とても詳しく教えてくださいました。
ありがとうございます。読んでみてくださいね。
「僕らが演じるクローズは多分これが最後」という思いが、
やはり強く、その意気込みが伝わってきますね。
さて急に寒くなって、秋が深まる今日この頃、
わかる、わからないに限らず(笑)、知的な流れに身をまかせたいなあ、
それが小栗くんによって導かれたら、なおいいなあと思っていたら、
「カリギュラ」岩切正一郎さん訳の本が、届きました。
すべて読みました。
もうお芝居を観ているので、小栗くんはもちろん、他の役者さんたちの、
台詞の息遣いとか、抑揚とかが、甦ってきます。
そしてやはりラストにかけて胸がいっぱいになってきますね。
私が書いたものとは、同じところ、違ったところありましたが(笑)、
ト書きも詳しく書かれていて、岩切さんの訳で読めて、改めて嬉しかったです。
そして最後に、岩切さんのあとがきと、
「アルベール・カミュと演劇」というタイトルで、大学教授の内田樹さんが、
書かれているのですが、この解説もとてもよかったです。
シェイクスピアもそうですが、何十年も、何百年も前に書かれた戯曲が、
演じられる意味、楽しさ、大切さがとても伝わってきました。
では、その「あとがき」「解説」について、少し書きたいと思いますので、
内容に触れますので、読みたい方だけお願いします。
岩切さんの書かれた「カリギュラ」のあとがきには、
「カリギュラ」は、「可愛い兵隊靴ちゃん」という意味の名等、
いろいろ興味深いことが書かれていて、
そして注目すべきは、その稽古に入ったときの俳優さんとのやりとりです。
“一例をあげよう。カリギュラが最初に登場するとき、ト書きには「不明瞭なことばをつぶやき」と書いてある。小栗さんに、「何をつぶやいているんでしょうか」とぼくはきかれた。正直な話、そこでなにをつぶやくかまで、ぼくは考えていなかった。思案するうちに、この問いはじつは重要なポイントを突いていると思えてきた。ここでカリギュラが自分にむかってつぶやきながら一人抱え込んでいるものを外在化させるのが舞台という場だ。その「不明瞭」なものが次の瞬間からこんどは他者を相手にした対話の場へ噴出し芝居全体をつらぬいて形をとる。それを準備するマグマがそこにある。それを意識したうえではじめて「不明瞭につぶやく」という演技も成立するわけだ。”
小栗くんはなにげなく聞いたことかもしれませんが、役者としての本能的にこういう、
重要なポイントを突いてくるというのは、やはり凄いなと思いました。
このト書きにまずひっかかるところが、感性が鋭いですよね。
こうやって改めて戯曲を読んでみると、もうすでにお芝居を観ているので、
この難解な戯曲でも、不思議と抵抗なく入ってきますが、
小栗くんが、最初に読んだときはどうだったんだろうと思います。
でも彼がよく理解して、咀嚼して、台詞を語ってくれたおかげで、
どんなにかいろんな感情が押し寄せてきたことか、演劇の力をまざまざと感じます。
その演劇について、「解説」として、内田樹さんが書かれた文章が、
とてもよかったので、少し書き出してみますね。
「アルベール・カミュと演劇」についてです。
カミュはとても演劇について、熱情を注いでいたそうです。
“「カリギュラ」ではジェラール・フィリップが(「誤解」ではマリア・カザレスが)戯曲に命を吹き込んだ。観客は主演の俳優たちに魅了された。彼らはその深みのある声と美しい身体を経由させることで、戯曲に命を与えることができる。
小説や哲学書においては、著書以外の誰かがその作品に「命を吹き込む」というようなハイレベルの関与をすることはありえない。戯曲においてだけ、それが可能になる。”
“間違いなく、ジェラール・フィリップ、ジャン=ルイ・バロー、マリア・カザレスらの俳優たちはカミュにとってつねに変わることのない忠実な友人たち(あるいはそれ以上)であった。だから、カミュは「シシュポスの神話」の中で俳優に破格の地位を与えている。
「俳優の王国はうつろいやすさのうちにある。あらゆる栄光のうちで、俳優の栄光がもっとも儚い」〜「このわずかな時間のうちに、俳優は五十平方メートルの舞台の上に、彼らを生み出し、そして滅ぼす。三時間後に俳優は、今日だけ彼のものである人間の顔の下で死ぬ。だから三時間のうちに、彼はある例外的な人生のすべてを経験し表現しなければならぬのである。三時間で、俳優は出口のない道の終点まで行き着く。座席で見ている人々がそれを踏破するために一生をかける歴程を駆け抜けるのだ。」”
“演劇において、戯曲家がそこに込めた「哲学的命題」がどれほど適切に観客に理解されたか、というようなことは問題にならない。演劇は何か有能な情報や正しい命題を後世に残すための手段ではなく、美しいものがまたたくうちに消え去るという事況そのものに立ち会う経験のことだからである。演劇はそれを作り上げるまでの同志たちとの集団的努力と、舞台の上に生成する一瞬の栄光がすべてであり、「この戯曲を通じて作家は何を表現しようとしていたのか?」という事後的な問いは原理的に無意味なのである。”
“「カリギュラ」の場合はテクストとしては生き延びることができない。今ここで、俳優たちがおのれの身体を供物として捧げることなしには、アルベール・カミュの青春の息づかいに私たちは触れることはできない。
その意味で、戯曲は未完成な文学形式である。戯曲は単独では完結しえず、他者の参加を呼び求める。そして他者の関与があるたびに、そのつど「別のもの」として繰り返し再生する。”
ジェラール・フィリップは、写真と、動く映像は映画「モンパルナスの灯」でしか、
観たことがないのですが、惹きこまれる美しい俳優さんですよね。
舞台俳優さんでもあったんですね。
何十年も前に演じた「カリギュラ」という役を、また日本の青年が演じる。
そうやって繰り返し再生されることが素晴らしいなあと思ったし、
貴重なことで重みも感じるし、文中にあるように、演劇の醍醐味というか、
「美しいものがまたたくうちに消え去るという事況そのものに立ち会う経験」、
その証人として、でもそれは心にずっと残っていくことだと思いました。
それこそ、アルベール・カミュの青春の息づかいとともに、
小栗旬という美しい身体を経由して、甦った「カリギュラ」を、
これからもずっとずっと忘れないだろうなあって思います。
そしてそういう「命を吹き込む」という作業ができる、
俳優という職業がまた素晴らしいですよね。
早く、その身を捧げて舞台に立つ小栗くんを、
またあの選ばれたものだけが持つオーラを背に、美しく舞台を駆け巡る彼を、
観たいなあとすごく思いました。