風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

異空間に酔いしれる

朝方曇っていましたが、晴れてきました。
昨日、舞台美術について書きましたが、その続きというか、
もうほとんど更新されていない「NINAGAWA STUDIO」というHPが、
あるのですが、その中に、蜷川さんの舞台でよく美術を担当される、
中越司さんの「カリギュラ」のときのインタビューが掲載されています。
なかなか興味深いので、また書いてみようと思います。
その前に、同じHPに、ちょうど「カリギュラ」の稽古中に、
蜷川さんのお誕生日のお祝いの記事があって、
その中の写真が、いつもいいなあと思うので、
そちらを先に紹介しますね。


【 NINAGAWA STUDIO 稽古場で迎える誕生日 】


蜷川さん、とっても嬉しそうで、ケーキも美味しそうなんですけど、
私が好きな写真は、その下の写真です。


“この日、小栗旬君、勝地涼君のシーンで、すごく良い芝居が行われ、
これもまた演出家へのプレゼントのようでした。
気持ちよく稽古が終わった後、
翌日の準備をするスタッフを見つめながら、
小栗君となぜか寝っ転がって語り合う蜷川さん。
稽古場が心地よい場所なのでしょう。
明らかに、仕事(芝居)の話をしてるのに、
「遊んでるんだ」なんて表現も、蜷川さん、ならでは。”


この寝っ転がっている二人がとってもいいなあっていつも思うのです。
小栗くんは本当に安心しているときの、いつもの感じで(笑)、
同じように、寝っ転がって寄り添ってくれている蜷川さんが、
とても優しいですよね。
巨匠と寝っ転がって話せるのは、芸能界広しといえど、
小栗くんだけだと思います(笑)。
本当に、可愛がっていただいて、大事に思っていただいて、
信じてもらって、期待をかけてもらって、
そして厳しく叱咤激励もしていただける、蜷川さんとの出会いは、
小栗くんにとって凄く大きなことだと思います。
蜷川さんの懐の大きさと繊細さはいつも感じるところで、
そして何でも面白がってくれるところが、またチャーミングで、
素晴らしいなあと思います。
また一緒にお仕事してほしいですね。


そして舞台美術の中越司さんのインタビュー。

【 NINAGAWA STUDIO 装置家・中越司の仕事 カリギュラ編 】


 蜷川舞台の中で、非常に重要な存在である装置。
 時にリアルに、時に抽象的に。
 それにはいつも深い意味があり、
 それに包まれ、突き動かされて、
 俳優達は、より役の息づかいになっていく。
 観客達は、箱庭のようにきめ細かに創られた異空間に、
 ひととき酔いしれる。
 これは、公演ごとに建ち、あっという間に消えてしまう幻のような
 装置の記憶を残す試み。


戯曲には〈装置に重要性はない。「ローマ風」のジャンル以外、すべてが許されている。第一、第三、第四幕は、皇帝の宮殿の一室で行われる。そこには鏡(人の等身大の大きさの鏡)、銅鑼、椅子兼用のベッドのあることが必要である。第二幕はケレアの食堂〉とだけ記されている(岩切正一郎訳による上演台本より)。


中越「『カリギュラ』の装置を蜷川さんと打ち合わせた時、
    “哲学的な内容の戯曲を、言語でない見せ方をしたい”と言われたんです」
――すると、登場人物の心象風景の変化をネオン管の色で見せたのは、
   当初から考えていたことなのですか?
中越「なんとなくは思っていたけど、具体化したのは、稽古をしながらです。
    照明家の大島さんとも相談しながら色を決めていきました」
――ネオン、きれいでしたね。フランシス・ジョンソンの、
    「アルベール・カミュ あるいは反抗心」という論文
    (「革命か反抗かーカミュ=サルトル論争―」佐藤朔訳 新潮文庫)にある、
     カミュの「知的透明性」とかいう感じも表現されていた気がします。
中越「それは、偶然だと思うけど(笑)。演出家は、
     主演が若い小栗旬君だからということもあって、
     若者の多い街・渋谷をイメージしたようです。当然インパクトも狙って。
     サイバーパンクとでも言うような新世界な感じを出そうと思いました。
     それでいて少し手作りふうな雰囲気もあるような」
――ラストの鏡を割るところも稽古場で演出部スタッフが試行錯誤されていました。
中越「毎回、全面割れると経費的に負担が大きいので、
    中央の鏡だけ9枚の正方形の鏡のはめ込みにして、
    公演のたびに割れたものだけ取り替えるようにしました。
    厚すぎると割れないし、薄すぎるとたわんでしまうので、
    ほどよい厚みを探しました。
    割れた時に、小栗君のほうに破片が飛ばないように、
    鏡の後ろは板で補強しないで、椅子が突き抜けるようにしてあります」


書き出したのは一部なのですが、全部読むと、やはり大勢の方たちの力、思いが、
結集して、ひとつの舞台は作り上がっていくのだなあと改めて思います。
そして蜷川さんと中越さんとの攻防も面白いですね(笑)。
カリギュラ」はネオン管と鏡張りで、斬新で美しい舞台装置でした。
“観客達は、箱庭のようにきめ細かに創られた異空間に、
ひととき酔いしれる”〜本当にそのとおりだと思います。
舞台装置は、飾るとか、見るだけのものでなく、
その中で役者さんが動くということですから、
装置自体も動きますし、日々作り上げていく感じで、
こうやって、小栗くんの方に、鏡の破片が飛ばないようにとか、
安全面も考えなくてはいけません。
その上、そのお芝居の中の深い意味を担っていて、凄く重要ですよね。
役者さんたちはまさにその世界の中で生きていくんですね。
そういえば「カリギュラ」は、観劇後、少し放心状態のようになって、
それこそ渋谷の街を歩いていて、都会の賑やかなクリスマスイルミネーションが、
自分の今の心情と、随分不釣合いだなあとか思いながら、
でもネオン管の美術とどこか似ているところもあるなあと思ったりしました。
今度は、どんな異空間に酔いしれることができるでしょう。
わくわくしますね。
そして「これは、公演ごとに建ち、あっという間に消えてしまう幻のような
装置の記憶を残す試み。」という言葉も素敵です。
生で観るということは、その一瞬一瞬消えていく瞬間を観ることでもあって、
その日、その時間の二度とない「カリギュラ」を「髑髏城の七人」を、
カリギュラの捨之介の幻のような瞬間を、記憶に残すために、
見つめているのだなあと思います。大切に観たいですよね。