風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

帰っていく場所

朝のうち雲っていましたが、晴れてきました。
はなここさんから教えていただきました(ありがとうございます)。
横田さんのブログに小栗くん、登場しています。
http://yokotaei.blog29.fc2.com/
こうやって小栗くんのまわりには、素敵な方々がたくさんいらっしゃいますので、
きっと大丈夫だとは思いますが、それにしても、
横田さんの方がなんだかいきいきと嬉しそうですよね(笑)。
この横田さんの表情を見たりしていると、
やっぱり小栗くん、少なくとも1年に1度は、舞台をやった方がいいと思います。
去年、雑誌「ぴあ」で「小栗旬の時代」という特集が組まれたときに、
三池監督が、こう仰っていました。
「逆に今、彼にとって唯一の精神的逃げ場は、
蜷川さんの舞台なんじゃないかと思うんですよ。
なにしろ感情を剥きだしにして、それをライブな空間でできるわけですから。
逆にもしそのはけ口を封印してしまったら、彼は役者としてどうなるのか。
そうしたらもっとすごいことになるんじゃないかって気が僕はしているんですけどね」
これは小栗くんという才能を映像という世界に、
もっと引っ張りたいという思いに取れましたが、
“唯一の精神的逃げ場は蜷川さんの舞台”という言葉は、
そのとおりだなあと思いました。逃げ場というか、帰るところかもしれない。
映像、舞台、最後、どちらに残るかと言われれば、
役者として、もちろんずっと両方演じていてほしいのですが、
最後は板の上にいる人なんじゃないかなあって、いつも思うんですよね。
お芝居が終わって、カーテンコール、まだ役に支配されているような、
たとえば、カリギュラと小栗くんの間を行ったりきたりするような彼。
その丁寧なお辞儀とともに、1回、2回、3回と皆さんの拍手にこたえていくと、
少しずつ、少しずつ、小栗くんへ戻っていきます。
それほど役にのめりこんで、その精神を纏って、身を削って、舞台に立つ彼を、
小栗くん自身もどこかで望んでいるのではないでしょうか。
またあの選ばれたものだけが持つオーラを背に、美しく舞台を駆け巡る彼を、
観てみたいですよね〜。


そうだ、セゾニア。この自由がなかったら、
おれは満ち足りた男になっていただろう。この自由のおかげで、
おれは神のように見通す孤独な男の眼を獲得した。
おれは生き、おれは殺し、破壊者の狂乱した権力を行使する。
それを前にしては、創造者の権力など猿芝居に見える。
幸福であるとは、こういうことだ。幸福とは、これだ。
この耐えがたい開放感、あらゆるものへの軽蔑、おれのまわりの血、
憎しみ、自分の人生を眼下に支配している男の比類なき孤立、
罰を受けない暗殺者の常軌を逸した悦び、
人間の命を砕く情け容赦のないこの論理、
おまえを砕く論理でもある、セゾニア。
そしてついに、欲しくてたまらない永遠の孤独を完成させるんだ。
                 「カリギュラ」 岩切正一郎訳より


去年の今頃は、私たちも「カリギュラ」で頭も心もいっぱいでしたよね(笑)。