風色の椅子 第二楽章

小栗旬さんのファンブログ やや耽美主義

海辺のカフカ

曇り空でしたが、晴れてきました。
今日の台詞は、花より男子2 第7話より。
「うれしいよ。連絡くれて」
「今の俺はさ。牧野に呼び出されたら、いつだって、どこにだって行くよ」


サファイアさんから教えていただきました(ありがとうございます)。
20日行われた「ムロツヨシ、バナシ6」トークライブの様子が、
ユーストリームでネット配信されています。


【 USTREAM ユーストリーム 】の下の、「過去のライブ」のところの、
ムロツヨシ バナシ6 その1 その2」をクリックすると見ることができます。


小栗くんと過ごした年越しのこと、「時計じかけのオレンジ」の稽古、舞台裏など、
いろいろ話してくれているそうで、
特に、「セイ、ソウ」など看守役でのいろいろなアドリブについて、
台本と演技を見せながら解説してくれていて、面白いそうです。
全部で3時間近くありますが、シュアリー〜オレンジの話は、
9分後くらいから始まるそうですよ。
私はまだ見ていないのですが、皆さん、ゆっくり見てみてくださいね。


さて【 2月9日 】のブログに、
蜷川さんが村上作品「海辺のカフカ」を演出するという記事を書いたのですが。
“世界的に活躍する2人の才能が初めて出会う。村上春樹氏の小説『海辺のカフカ』が蜷川幸雄氏の演出で舞台化され、来年5月、さいたま市彩の国さいたま芸術劇場で上演される。夢と現実、冥界とこの世を行き来する村上氏の世界と、スペクタクルな蜷川演出から、どんな舞台が生まれるのか。
「絶対に許可が出ないと思っていた。プレゼントをもらった気分」。村上氏の全作品を読んできた蜷川氏は、思いもよらなかった舞台化の喜びを率直に表す。”
この舞台に小栗くん、出てくれたら嬉しいなあということで、
海辺のカフカ」を読んでみました。
いつも事前に情報を入れない方なのですが、
まだ出演するかどうかわからないこと、
もし出演するとしても来年の5月ということで、
きっと忘れちゃってるかもしれない(笑)ということで、読んでみました。
そしてもし小栗くんが演じるとしたらということで、
長男、皆さんが仰っていた図書館の人は、
時計じかけのオレンジ」の刈谷公演あたりの細身の小栗くんで、
いけると思います。図書館の人は少し特殊な人なので、
細身であることは役柄として重要です。
小栗くんの現実離れした雰囲気、舞台での美しさが活かせる役だと思います。
それからもうひとり、星野くんという男の子が出てくるのですが、
この役でもいいかなと思います。
これは「時計じかけのオレンジ」初日あたりの小栗くんで、大丈夫です(笑)。
小栗くんの愛すべき雰囲気、ユーモラスな感じが活きる役だと思います。
蜷川さんに小栗くんを呼んでもらえたら、それは凄く嬉しいのですが、
でも本を読んだら、この作品がどんな舞台になるのかとても興味がわきました。
是非、観てみたいなあと思いました。
それでは「海辺のカフカ」の感想を書きたいと思いますが、
ネタバレを含みますので、読みたい方だけお願いします。





海辺のカフカ           村上春樹


村上作品を読んだのは、「風の歌を聴け」以来、2作品目なのですが、
海辺のカフカ」の方が私ははるかに感動しました。
ひとりの少年の心の成長の物語ともいえるのですが、
私はなんとなく人間賛歌、生きることへの賛歌という気がしました。
それはただ声高にそれを訴えるのではなく、
ファンタジーとリアルさと、ユーモアと知的さ、
この世と冥界、夢と現実、迷宮、新しい世界、
それらが巧妙に織り込まれているようなページの上に、
もやがかかるように存在していて、
読後、そのもやが晴れ、その露の輝きを心深く感じるという、そんな物語でした。
ファンタジーといっても、ダークファンタジーに近いのですが、
主な登場人物は皆、繊細でどこか厭世的であり、心に悲しみを湛えていて、
自分が何者であるのかという課題を抱えながら、しかし優しげです。
いわゆる人として決して無神経ではなく、品が良く、
会話は知的で、そうではない人も出てきますが、
でも素直でユニークで、人間的に愛すべき人たちです。
物語を読み進めると、最初、すべて預言のように感じ、
それを確かめるために、一緒に旅に出るような感覚でした。
時間はゆったりと優雅に流れて、
匂い立つような描写は、触った感触も覚えているような、
リアルな夢の中にいるようで、どこかロマンチックで、
とても惹きこまれました。怖ろしい場面もあるのですが、
心にひっかかる言葉は、奥ゆかしく、しかし確かに存在し、
ページをめくる指を遅らせます。
いろいろな人たちの思いが、愛が、その寸前で逡巡するように届かなくて、
切なくて、でもやっと届いたんだと思ったり、
すでに届いていたことに気がついたり、
その中に、「オイディプス王」「源氏物語」「雨月物語」等が散りばめられ、
シューベルトベートーヴェンの音楽が、心地よく流れていきます。
あまり本のない(笑)、私の心の図書館に置いておきたい一冊になりました。
登場人物は、主人公の15歳の少年、田村カフカくん。
旅の途中で出会ったさくらさん。
図書館関係は、大島さん、佐伯さん。そして猫と話せるおじさん、ナカタさん。
ナカタさんと旅をすることになるトラック運転手の星野くん他。
皆さん、主に饒舌です(笑)。
二つのお話が同時進行していくように、物語は始まります。
ではその図書館の人、大島さんの出てくるページと、
星野くんの出てくるページを、少し書き出してみますね。
まずは図書館の人、大島さん。


「これまでに様々な名ピアニストがこの曲に挑んだけれど、そのどれもが目に見える欠陥を持っている。これならという演奏はいまだない。どうしてだと思う?」
「わからない」と僕は言う。
「曲そのものが不完全だからだ。ロベルト・シューマンシューベルトのピアノ音楽の良き理解者だったけど、それでもこの曲を『天国的に冗長』と評した」
「曲そのものが不完全なのに、どうして様々な名ピアニストがこの曲に挑むんですか?」
「良い質問だ」と大島さんは言う。そして間を置く。音楽がその沈黙を満たす。「僕にも詳しい説明はできない。でもひとつだけ言えることがある。それはある種の不完全さを持った作品は、不完全であるが故に人間の心を強く引きつけるー少なくともある種の人間の心を強く引きつける、ということだ。たとえば君は漱石の『抗夫』に引きつけられる。『こころ』や『三四郎』のような完成された作品にない吸引力がそこにはあるからだ。君はその作品を見つける。別の言いかたをすれば、その作品は君を見つける。シューベルトの二長調ソナタもそれと同じなんだ。そこにはその作品にしかできない心の糸の引っ張りかたがある」
「それで」と僕は言う。「最初の質問に戻るけど、どうして大島さんはシューベルトソナタを聴くんですか。とくに車を運転しているときに?」
シューベルトソナタは、とくに二長調ソナタは、そのまますんなりと演奏したのでは芸術にならない。シューマンが指摘したように、あまりに牧歌的に長すぎるし、技術的にも単純すぎる。そんなものを素直に弾いたら、味も素っ気もないただの骨董品になってしまう。だからピアニストたちはそれぞれに工夫を凝らす。仕掛けをする。たとえば、ほら、こんなふうにアーティキュレーションを強調する。ルバートをかける。速弾きをする。メリハリをつける。そうしないことには間が持たないんだ。でもよほど注意深くやらなければ、そのような仕掛けは往々にして作品の品格を崩してしまう。シューベルトの音楽ではなくしてしまう。この二長調ソナタを弾くすべてのピアニストは、例外なくそのような二律背反の中でもがいている」


次に星野くん。


「朝から話してきたように、俺はずいぶんこれまでひでえことをしてきた。身勝手なことをしてきた。それは今更ちゃらにはできない。そうだよな?でもこの音楽をじっと聴いているとだね、ベートーヴェンが俺に向かってこう話しかけているみたいな気がするんだ。〈よう、ホシノちゃん、それはそれとして、まあいいじゃんか。人生そういうことだってあるわな。俺だってこう見えてけっこうひでえことして生きてきたんだ。しょうがねえよ、そういうのってさ。成りゆきってもんがあるんだ。だからさ、これからまたがんばりゃいいじゃん〉ってさ。もちろんベートーヴェンはなにしろああいうやつだから、実際にはそんなこと言わねえんだろうけどさ、なんとなくそういう気持ちみたいなのがじわじわこっちに伝わってくるってことだよ。そういう感じってしないか?」
石は黙っていた。
「まあいいや」と青年は言った。「それはあくまで俺っちの個人的な意見に過ぎねえわけだ。とやかく言わず、黙って音楽を聴こう」
 2時過ぎに窓の外を見ると、太った黒猫がベランダの手すりに乗って、部屋の中をのぞき込んでいた。青年は窓を開けて、退屈しのぎに猫に声をかけた。
「よう、猫くん。今日はいい天気だな」
「そうだね、ホシノちゃん」と猫は返事をかえした。
「参ったなあ」と青年は言った。そして首を振った。