曇り空です。
「鎌倉殿の13人」第18回を観ました。
戦いの虚しさ、空虚感がよく描かれていましたね。
それが悲願だったはずなのに、いざ達成されてみると、
こんなはずじゃなかった、この景色を見たかったわけじゃなかったという、
そういう思いが感じられました。
義時においては最初の戦うシーンが格好よかったです。
馬を走らせながら矢を射ること、颯爽として見事でした。
馬に乗りながら刀を振るうところも格好良くて、
お馬さんも良く頑張りましたね。
しかし夕日の中、海岸に横たわる数多の屍を前に義時と義経の会話。
義経「これは戦だ。多少の犠牲はやむを得ん」
義時「多少でしょうか」
義経「勝たねば意味がない。これまでに討ち死にした者の命が無駄になる。
お前の兄も戦で死んだらしいな」
義時「はい」
義経「無駄にならずに済んだぞ」
義時「兄は平家に苦しめられる民のことを思っていました。
果たして喜んでくれているのかどうか」
義経「私の戦にけちをつけるのか」
義時「そうではございませぬが」
波の音、夕闇が迫り、逆光での義時のシルエット。
夕日に縁取られた長いまつ毛の俯く義時の横顔。
虚しさという悲しみに向き合っているように思えました。
それから川辺で義経から「次は鎌倉で会おう」という言葉に、
頷く義時の慈愛に満ちたような優しい表情もよかったです。
でも人間はなんて複雑なんだろうと思いました。
頼朝と政子のシーン、平家が滅んでこんなにも義経に感謝している、
頼朝だったのに、義経を鎌倉へさえ入れないという。
義経に至っては、畠山曰く漕ぎ手を殺すということは、
末代まで笑い者になるという掟破りを嬉々として行ったかと思えば、
宗盛を息子に会わせたり、いつかの里芋のことを覚えていて、
倍以上にして振る舞ったり。
頼朝と義経は会っていたら歴史は変わっていたでしょうか。
景時の言葉ではないですが、天に選ばれた人間は、
仲良く並び立つことはないのかな。
その二人を近くて見守っていた義時もいつも辛い立場ですよね。
でも義時の目線であるからこそ、頼朝の義経の複雑さ、
人間臭さが伝わってくるのだと思いました。
そういえば音楽は以前、ドヴォルザークの新世界が使われっていましたが、
今回はヴィヴァルディの四季の「冬」ぽかったですね。
いつも音楽も素敵だと思います。
来週も楽しみにしています。